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HISTORYケミカルプリントの歴史・あゆみ
〜 受け継がれる技術者の心 〜

19651979

ケミカルプリントの創業

ケミカルプリントは創業者・瀬戸 洋の卓越したアイディアを事業化することで発展してきました。会社員時代にスクリーン印刷を応用した「蛍光塗料の塗布の機械化」という、当時では画期的な技術を確立させた瀬戸は、1965年に特殊印刷を中核事業とした「ケミカルプリント(化学の印刷)」を設立しました。
特殊印刷とともに当時注目を浴びていた超音波技術をガラス彫刻に応用・実用化させることに成功し、硬く脆いガラスへの微細加工を世に送り出しました。また超音波加工を水平展開させた翡翠(ひすい)など宝石・貴金属加工を手がけ、翡翠をジュエリー品としてだけではなく印鑑やゴルフパターに加工し販売するという奇想天外ぶりが好評を博しました。
事業創出を続ける私たちにとって大きな発展の契機となったのが、1969年頃から開始した「プリンタードラムへのエッチング事業」です。当時大ヒットしていた印字式計算機の印字車(プリンタードラム)の量産化という難題に白羽の矢が立った当社は、印刷・エッチング技術を結集させ、数ヶ月間で月産約25倍の量産製造法を確立しました。この実績が、高度なエッチング技術を有する会社としてケミカルプリントを評価していただくきっかけとなりました。
このように常識では思いつかない、もの・コトを組み合わせ、成果が出るまで粘り強く探求し続けるという創業当時からの心は「常識をわきまえた非常識の実行」という社是で現在も私たちの最も大切な価値観として受け継がれています。

19802003

平物エッチングへの参入

特殊印刷からはじまり事業を多角化し発展してきたケミカルプリントにも、世の中の流れとともに逆境に苦しむ時期もありました。1973年に起きた第一次オイルショックの余波は製造コストの削減と輸出商談の障壁に直結し、同時期に計算機が印字式から液晶表示へ転換していったことによりプリンタードラムの需要が低下しました。
こうした苦難に対して、プリンタードラム加工の対象を計算機からレジスター(レシートの印字車)へ展開し、あわせて翡翠製品へ力を入れることで経営を維持しながらも、新たな挑戦として「平物エッチング」の分野への本格参入を決めました。
より細部の精度を必要とされる平物エッチングに悪戦苦闘しながらも「技術主義」を掲げ、徹底した技術開発の末、1982年に平物エッチングの量産体制を整えました。エレクトロニクス製品の普及とともに平物エッチング事業は順調に成長し、1984年に超音波加工事業からの撤退、1988年に東京・青梅に現本社工場の稼働を開始したことでケミカルプリントはエッチング加工の専業メーカーという現在の礎を整えました。
以来、「品質最優先のものづくり」をテーマとし時には前例のない要望に対しても研究と試作をくり返し実現していくことで、高水準の技術を獲得し、現在に至るまでさまざまな業界で高い評価をいただいています。

2004現在

唯一無二のエッチング加工メーカーへ

1990年代のバブル経済崩壊による景気低迷を乗り越えたケミカルプリントは、2004年に創業期から会社を支えてきた高橋繁夫を代表取締役に据え、現在の経営体制へと移行しました。
新体制ではエッチング加工の技術強化を推し進め、たとえば自動車用オイルフィルターの穴あけ製法を補聴器フィルターに応用するなど、製造・研究の過程で蓄えたノウハウを他業界・別製品に応用することで、さらなる精密技術を習得していきました。このサイクルの結果、唯一無二の超精密エッチング加工技術と、製品の設計段階での技術提案を実現できるようになりました。
高橋の就任後も、リーマンショック(2007年頃)や東日本大震災(2011年)、新型コロナウイルスの蔓延(2020年頃)など、社会情勢による苦境が度々私たちに立ちはだかりましたが、真摯に品質と顧客満足に向き合うことで乗り越えてきました。
私たちは「彫れるものであれば、何にでもトライする」というスローガンを行動指針として、これからもお客さまのご要望に応え続けるため技術向上に努めてまいります。